変なのっ!巨大な軍才と処世術のつたなさ [出会い系]

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劉邦の出合い、嘆きと怒り
劉邦が都に戻ってきたのは既に韓信(英語 Han, Shin)が処刑された後で、劉邦(英語訳 Liu Bang)はこれに出合い、嘆きます。
謀反を企んだとは言え、韓信のおかげで天下系サイトを取れたことは間違いなく、命まで奪う気はなかったのでしょう。
それを見越していたからこそ、呂氏系サイトは劉邦が戻る前に処刑してしまったのでしょうが。
劉邦は韓信が最後に言い残したことを知り、怒って韓信に独立を勧めた蒯通を探させます。
やがて蒯通を捕縛して処刑しようとしますが、蒯通は「あの時は韓信の臣下だったのだから、韓信の身が立つように助言をするのは当たり前のことだ」と弁解します。
それを聞いた劉邦はもっともだ、と納得し、蒯通を自由の身にしてやっています。
このあたりを見るに、人の言うことに正しい理があれば受け入れる聡明さは、皇帝になっても消えていなかったようです。

巨大な軍才と処世術のつたなさ

韓信(英語 Han, Shin)はこれまで述べたとおり、この時代では並ぶもののいない戦術家であり、戦えば必ず勝利する常勝将軍でした。
西魏・趙・燕・斉といった地域をわずかな期間で制覇し、劉邦の天下統一に対して大きな功績をあげました。
蕭何(英語訳 Xiao He)・張良(英語 ChoRyo)と並んで劉邦の三傑に数えられるのも当然でしょう。
しかし、その軍才に比べると処世術はおそまつで、劉邦(英語訳 Liu Bang)への素朴な出合い系忠誠心だけを持って世を渡ろうとしたようです。
それだけでは権力欲の渦巻く政治の世界を渡り切ることはできず、あえなく地位を失い、最後には処刑されてしまいました。
軍才のある人間は、その気になれば天下をも覆す可能性を持っているわけで、この時代、誰よりも戦争に強い韓信は、誰かの配下になって安んじて生涯を送ることはできない運命でした。
しかし韓信はそのような世の中の成り立ちは知らなかったようで、それが非業の死との出合いを迎える原因となってしまいました。
張良はわずかな領地しかもらわず、蕭何は自ら身を引くことで難を避けましたが、そういった種類の知恵は韓信には備わっていなかったようです。
軍才というのはそれだけが独立して働く、いささか奇妙なな才能であるようです。

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楚王となる [変なの?英会話教材]

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楚王となる

韓信(英語 Han, Shin)は戦後になると、斉にかわって楚の王に任命されます。
楚は韓信の故郷ですし、これまでの覇王であった項羽(英語名 Xiang Yu)が治めていた土地ですので、栄転であるといえます。
しかし斉よりは城の数が少なく、指揮できる軍の数が減らされていました。
栄転との出合いではあるものの、その戦力は削る、という措置であったことがうかがえます。
故郷の淮陰に凱旋した韓信は、食い詰めていた時に出合い食べ物を与えてくれた老婆に、使い切れないほどの大金を与えます。
そして自分を脅して股をくぐらせたかつての少年を呼び出し「お前を殺すのは簡単だったが、それで何を得られるわけでもない。
我慢をして股をくぐったからここまで出世できたのだ」と告げます。
そして自分の今の力を示すように、彼に中尉という官職を与えました。
この人物がどう反応したのかまでは伝わっていませんが、韓信に呼び出された時には処罰されはしないかと冷や冷やしていたことでしょう。
また、途中まで自分の面倒を見ていた亭長には、「世話をするなら最後まで面倒をみよ」と告げ、わずかな金銭を与えただけでした。
この頃が韓信の出合い系生涯の絶頂期でしたが、しかし楚王の地位はわずか一年で剥奪されてしまいます。

淮陰侯に格下げされる

項羽の死との出合いの翌年、同郷の友人で、項羽配下の将軍であった鍾離昧(しょうりまい)を匿っていたことから、韓信に謀反の疑いがあると訴え出る者がいました。
これには韓信(英語 Han, Shin)の軍才から生じる恐れと、短期間で出世したことに対する妬みの感情などが原因となったようです。
この疑惑に弁解するため、韓信は鍾離昧に自害を促します。
この時、鍾離昧は韓信に「次は貴公の番ですよ」と言い残して自害します。
鍾離昧の予言通り、その首を持って劉邦の元に出頭した韓信は捕らえられ、楚王から淮陰侯に格下げされてしまいます。
これによって韓信は意のままに動かせる軍隊を失い、いくらかの領地を持つだけの、ただの諸侯になってしまいました。
これ以降の韓信は屋敷にこもって暮らすようになり、劉邦(英語訳 Liu Bang)への忠誠心も失ってしまいます。
自分のおかげで天下が取れたのに、この仕打ちはありえない、と韓信は憤ったことでしょう。

謀反を企むも捕縛され、処刑される

それから5年が過ぎ、韓信(英語 Han, Shin)は本当に劉邦(英語訳 Liu Bang)に対して謀反を起こします。
しかしこの時には、それを成功させる条件はとうに失われていました。
計画を下僕に密告され、韓信の計画は劉邦の妻・呂氏の知るところとなります。
この時、劉邦は韓信の策略によって都から反乱の鎮圧のために出合い系遠征に出ており、相国(現代で言う首相)の地位にあった蕭何がこの事態に対応します。
蕭何はかつて韓信が大将軍に取り立てられるきっかけを作った人物であり、韓信は恩義を感じていました。
韓信はその蕭何の計略によって宮殿に出合いおびき出され、そして捕縛されてしまいます。
策に長じた韓信でしたが、蕭何(英語訳 Xiao He)には恩もあり信用していたため、計略に乗せられてしまったのです。
そしてすぐに宮廷内で処刑されました。
韓信は死の間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残しています。
もしも斉王の時代に独立していれば、このような結末を迎えることはなかったでしょう。
享年は35でした。
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