毛沢東 part3 教師時代 [変なの?英会話教材]

教師時代

1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。

1919年の五・四運動期に、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。

楊の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。

毛(英語で Mao )は同大学の聴講生として登録し、陳独秀、胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。

上海に滞在中の毛(英語で Mao )は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。
>>>ここを英語で
Mao where I'm staying in Shanghai worked hard at reading as much as possible to take communism theory in.

翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。

この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。

父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。
>>>ここを英語で
You say father's legacy and the income by the business were a considerable one, and that Mao Zedong's life was stable.

同年、楊の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。

なお、第一次国共合作が破れ、中国共産党と中国国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月、蒋介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。

楊開慧は殺害され、その後、息子たちは親類に送り返されている。










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